j.w.a

jap wit Attitudes 主張する日本人

花筐。「奪われる物の違い」

有楽町のスバル座?で見てきました。

(名前合ってるかわからない)

見て来て思ったのだけれど、今迄の戦争映画とは違う事について描いていた。

視点がぐーっとミクロにクローズアップしたのを感じました。

今迄の戦争映画だと命や生活が奪われる事が多かった。何万人が死んだとか、空襲で焼け出されたとか。

けれどもこの映画では、自分らしく生きる事を奪われていました。

戦争の悲惨さよりも、個人が息を殺して過ごす悲惨さが描写されていて、現代社会の現状を描いていた。

つまり、戦争自体は単なるトドメに過ぎず問題はもっと前から始まっていたのだと思う。

劇中の主人公とその周辺の人々は今現在の若者とその周辺の人々とは全く同じ立場にある。

逆か。後者が前者と同じ立場にあると言うべきだった。

戦争が迫っているひりつく緊張感の外に若者がいて何も知らずに消費されていく目前に自分達が生きているのだと言いたかったのだと思う。

実際若い人達はもう消費されている。

日々の生活で大きな存在に消費されて消耗している出涸らしに成りかけている。

keep it realとか言うけれどrealの幅がとても狭まって来ていると感じる。

手の届く情報の範囲が広まっているからこそ、手が届く情報だけに囚われてしまって複合的に、メタ的に考える事が出来なくなっているのだと思う。

今胸焼けを起こしている人達はどれだけいるのかと。タイラーダーデンの様にはっきりと僕の目は開いていると言い切れる人がいるのかしらと。

思いました。

 

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華氏119 監督マイケルムーア主演ドナルド・トランプ

 

華氏119を見てきたので感想を書き連ねますよ。

映画『華氏119』公式サイト

https://gaga.ne.jp/kashi119/

 

何故トランプ大統領が生まれたかを追うドキュメンタリーです。

流れとしては

2010年トランプの大富豪仲間リックスナイダーがミシガン州州知事に当選します。

その後2013年頃デトロイト市等に非常事態宣言を行使し権力を強めて行きます

トランプがそれを見て「次に進むためなら仕方ない。国も同じかも」とか血迷った事を言って

2015年に出馬表明してしまいます。

後はご存知の通りトランプ大統領の出現です。

 

マイケルムーア監督はなんでこんな事になってしまったのか、アメリカはリベラルの国では無かったのかと疑問に思い、取材を続けるうちに

ミシガン州フリントの水道水汚染問題に行き着きます。

 

フリント市は水道下水局からヒューロン湖の水を取水していました。しかし財政が厳しい為財政非常事態の認定を受けミシガン州の管理下に置かれ、水源をフリント川からの物に変更されてしまいます。

この水源の変更に伴って新しい水道も建設されています。

何がしたかったのかは言うまでないですが、いくらなんでもとは思います。

そして、2014年4月フリント川に水源が切り替わって以来明らかに蛇口から出る水が濁っているなどの水質の低下が目立ち、調査したところ鉛が基準値の数倍検出され水質汚染が発覚しました。

 

当然住人からこの人災への抗議の声が上がりました。

フリント市の住人達の57%はアフリカ系で人種差別的な問題でもあるとも言う意見もありました。しかし当時はオバマ政権であり、オバマ大統領が行動してくれれば事態は好転すると抗議を精力的に継続していきます。

 

そして2016年5月4日念願かないオバマ大統領がフリントに訪れました。

コップに一杯の水道水で唇を湿らすためだけに。

 

結局非常事態認定がなされて、現在では各家庭にミネラルウォーターが配布されています。

パイプを交換する財源は無いそうです。

リックスナイダーは今のところお咎め無しです。ここら辺もう自分でも何書いてるかわからなくなってきます。でも事実ですこれが事実なのです。

 

住人達はこの裏切りで政権に対する深い無力感、政権への諦めの様なものを感じています。

 

この諦めや無力感こそがトランプ大統領出現の要因なのです。誰が大統領でも結局何も変わらないと言う考え方が蔓延し、うっかりトンデモナイ奴を据えてしまったのでした。

 

確かにこの様に無力感に囚われていたり不安な気持ちを持っている時に聴きごごちの良い派手な事を言われるとつい指示したくもなりますが、その結果がドイツで何を引き起こしたかは言うまでもない事です

 

それ以外の内容も盛りだくさんです。

現在起きている若い世代の運動やアメリカの選挙の悪しき習慣、トランプへの個人攻撃など見るごとに気づきや学べる事があると思います。

 

翻って日本はどうでしょうか?

国有地でやりたい放題し、沖縄で土砂搬入して、技能実習生は自殺して、税関は的外れな批判を悪びれもなくツイートする、更に消費税増税や水道の民営化を控えています。

現状のままでは良いとは思えません。

しかし、大それた事ができる訳でもありません。

 

いつか聞いた話ですが、nhkの報道の人達がツイッターでの「面白かった!」「興味深かかった」などのちょっとしたツイートでもプリントアウトして壁に貼り付けてるらしいのです。

彼らにとって140文字以内のツイートでも励ましになるのです。

 

どうやら些細なことでも働き掛ける事は可能らしいです。

其れを繰り返して行く事が大切なのだと感じました。

 

 

 

 

 

 

「斬、」塚本晋也監督作品池松壮亮主演

塚本晋也監督の最新作しかも初の時代劇。

その名も「斬、」

を渋谷ユーロスペースで見てきました。

クラブ通いによく通った道でclub asiaの真隣です。

懐かしい。

時代に対する感度が高過ぎてどの作品も切れ味鋭めな塚本晋也監督ですが、今回もだいぶ切れています。

 

あらすじを書くのがめんどくさいのでwikiから引用します。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/斬、

250年ものあいだ泰平の世が続いた江戸時代末期。困窮で藩を離れる武士も多く、江戸近郊の農村に身を寄せる若き浪人・都筑杢之進(池松壮亮)もその一人だった。杢之進は農家を手伝い食つなぐ日々を送りながら、農家の息子・市助(前田隆成)に剣の稽古をつけ自身の腕も磨き続き、市助の姉・ゆう(蒼井優)とは身分の違いがありながらも密かに想い合っていた。この頃、国内は開国するか否かで不穏な空気が漂い、ゆうは杢之進が村を離れ中央へ参戦する日が近づいている事と武士に憧れる血気盛んな弟を心配していた。ある日、三人は一人の剣豪・澤村(塚本晋也)と出くわす。杢之進と市助の稽古を見ていた澤村は杢之進の剣の腕にすっかり惚れ込み、自分の組織の一員として江戸へ行き、泰平を守るため京都の動乱に参戦しないかと二人に声を掛ける。誘いを引き受け、市助は農民の自分も連れて行ってもらえると喜ぶが、杢之進は剣の才能はあるが人を斬った事が無くそんな自分に葛藤する。そんな時、どこからか流れ着いてきた無頼者(中村達也)たちが村にやって来る。悪い噂の立つ彼らの存在に農民たちは怯え、剣の立つ杢之進にどうにかしてほしいと願うが、杢之進たちが江戸へ旅立つ前に小さな村で事件が起きる。

 

貼り付けたは良いけれどしこたま読み辛いですね。

私が「斬、」で凄いと思う所は「時代背景の現代とのリンク」と「主人公の都筑杢之進が人を切れない侍」という設定にした事です。

 

あらすじにある通り、開国目前にして動乱が起きようとしている江戸時代末期です。

何かが起きようとしているその不安感が全体に広まっています。

しかも農村の人達と侍、浪人達で理解度に差はついていますが、全体の見通しが付いているのは誰もいません。

また、澤村という急先鋒の浪人が出てきます。

農村の人達、杢之進、澤村とそれぞれの考え方が違う人が同じ空間に存在しています。

 

これは現代の日本を時代を変える事でかなりリアルに描き出していると思いました。

情報が手に入り易くなり、全国どこにいても何が起きているのかは把握しやすくなりました。

それにより不安感と無力感に囚われています。

また個々人間の情報に対する理解度の差が広まり続けています。

更に声の大きい人達の揶揄が何処にでも見受けられる様になり、それに簡単に影響を受ける事も少なくはありません。

この全てを小さな農村のたった4人で描き出しています。

 

そしてその中で主人公の都筑杢之進を通して個人がどの様に揺れ動くかかを描写しています。

人を切る事が出来ない侍がこの映画の主題なのですが、この場合の切れないは「切りたくても切れない」という甲藤を描いています。

切りたいという気持ちが何処から発現するものなのかという見方でかなり解釈が違ってくると感じました。

切りたいという気持ちが自己の暴力性によるものとするとラストシーンの描写が自分としてはありきたりなものだと思います。

 

しかし切りたいという気持ちが社会的な立場、教育によるもの、つまり後天的に付与されたものだと考えるとラストシーンとの統合が取れ話が変わってくると思いました。

これは現代で言うマイノリティーLGBTの方々や女性etc)が直面している社会通念上の性と自身の性との歪みの問題、苦しみを表しているからだと思います。

 

一言で纏まるとこの映画は現代におけるマイノリティーに対する迫害とそれによって起こされる個々人の苦しみを描いていると感じました。

 

更にここで迫害(やりたくない事をやらせる、自由を侵害する)を加えているのは澤村という浪人が個人的に行っています。

 

今迄の塚本監督の映画のテーマは「都市と肉体」という所にありました。都市とは社会全体の象徴であり、その中で惰弱な存在としての人間の肉体を通じて個人から社会に対しての不満の捌け口としての暴力性を描いていました。

しかし「kotoko」以降「野火」そしてこの「斬、」になると都市としての社会は消え去り「都市と肉体」から「肉体と暴力」へテーマ変革が伺えます。

つまり暴力性は個人間へと向いていて、次のステージへ移ってしまったのだと思います

 

勿論この変化がいい事であると私は思いません。

 

私はこの映画を見た後日、友人と話した際に、かといって無力感はどうしようもないものだと言いましたが、その友人は「無力感に苛まれる程その事柄が酷いと思うなら、尚更行動に移すべきだ」と言われました。そしてその時に話していた事柄に対するウェブ署名を教えてもらい、その場で署名しました。

 

この映画の様に江戸時代末期であれば流されるままに終わってしまう世の中ですが、現代は色々なやり方で行動が出来きます。

それが最も重要な事であるとこの映画の問題提起に対しての私なりの答えです。

SUPERMAN RED SON


著者 マーク・ミラー(作)

   デイブ・ジョンソン/キリアン・ブランケット(画)

訳者 高木 亮

発行 小学館集英社プロダクション

スーパーマン レッドサンはキックアスシリーズ、キングスマンシビルウォーなどで知られるマーク・ミラーがDCでの最後の作品として作ったスーパーマンです。

いわゆるアメコミアメリカン・コミック)です。

一応WIKIからアメコミの概要引用しておきます。

 

アメリカン・コミックス - Wikipedia

アメリカン・コミックスアメリカン・コミック)は、アメリカ漫画作品の総称である。アメコミとも略される。アメリカン・コミックスという名称は、アメリカの漫画と他国の漫画を区別するための呼び方であり、アメリカ国内では「コミック・ブックComic book)」あるいは単純に「コミック(Comic)」と呼ばれる。

通常の場合、アメリカン・コミックスは連続した物語の形式で綴られ、薄い月刊誌に連載される。「コミック(滑稽)」という英語での呼び名に反し、扱われる主題は必ずしもユーモラスな物であるとは限らない。実際は、ドラマティックでシリアスな作品がアメリカン・コミックの多くを占めているジャズやその他の文化と同様に、アメリカン・コミックは数少ないアメリカ発祥の芸術形式の一つである。

 

下線引いてあるとおり、大人向け作品が多いので世界中にファンがいるサブカルチャーですね。

アメコミの歴史も古いのですがスーパーマンは最初期から登場しているので初出しが1938年とおじいちゃん最古参のヒーローです。

ニコラスケイジもファンを公言していて、映画のオーディションに応募していたらしいです。(娘さんに禿げたスーパーマンなんてイヤと泣かれたとかいう噂も)

 

そんなベテランアメコミヒーローUSAの象徴が今作品ではまさかのソ連スーパーヒーローとして活躍しているとんでもないパラレル作品となってます。

コスチュームも 青いスーツから黒いスーツに、胸のシンボルもSUPERのSから鎌と槌イメチェン、衣替え変わって、同志スターリン(作品準拠)のもと能力を遺憾なく発揮し日々ソ連の平和を守るべく奔走してます。

 
あれ?....やってること変わって無くないか?
 
 
しかし最初の内はスーパーヒーローだったスーパーマンスターリンの死後だんだんと変わっていってしまい、最後にはスーパーマンvsアメリカ合衆国の最終決戦となってしまいます
 
2012年に発刊されているのでネタバレの心配もいまさらですがこれ以上は書きません。
 
この作品の面白いポイントは、世界の平和を守り、正しいことのために戦うというスーパーマンのスタンスは変わっていないんですよね。
ただ、もともとの作品が一般的なアメリカ人としての常識をもっているように、ソ連一般的な平凡な労働者としての価値観で行動するんです。
 
つまりマーク・ミラーさんはスーパーマンの出自を変える事で相手の立場で物事を考えてみる、立場の違いを超えて何が本当に幸せなことかを考え欲しかったんだと思います。
そして、正義の為に苦しむスーパーマンを通じて本当の平和を訴えかけたかったのだと思います。
 
自己責任論やポピュリズムが広まって、断絶はより強まる傾向があると思います。
そんな時だからこそ、私達一人一人がスーパーマンになるべきだと言うメッセージが込められていました。
 

 

 

この世界のの片隅に「勝ってくれなきゃ何のために我慢したのかわからない」

正直だいぶ舐めていました。

震災映画(3.11以降で震災の影響を受けて作られた映画の事をまとめて指しています。)

の傑作でした。

早稲田松竹で見たんですけど、終わった後に拍手が起こりました。

日和った自分が情けないです。拍手しておけばよかった..

「何の為の我慢だったのか」ってあまり語られて来なかった声だと思うんですね。

戦争が終わって一件落着じゃないんですよね。

終わって平穏な生活が訪れると能天気に思えるには、余りにも多くの犠牲を払ってる事を教えられました。

正直二本立ての大林信彦の

この空の花 長岡花火 を見に行ってたつもりだったんですよ。

でも、両方見れて本当に良かったです。

一見するととても優しくて牧歌的な映画なんですよ。予告だけ見てたら油断します。

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サイレンスsilenceハクソー・リッジhacksaw ridge

早稲田松竹で見たサイレンスとハクソー・リッジ

両方とも主演がアンドリューガーフィールド

 

かなり異なるタイプの主人公を演じていた。

 

周りの人の協力で、自分を貫く事が出来た人。

たった一人で自分の未熟さに負けた人。

 

二人の差はプライドが何に寄っているかの違いであったと思う。

 

間違いを犯した者と、犯さなかった者の違いでもあるかもしれない。

 

幼少の頃弟を傷つけてしまった事により、汝殺すべからずという教訓を本当に理解する事が出来た。

 

ロドリゴ神父にはそのような経験が無かったのかもしれない。

 

勿論其れが普通であり、そのような行動を取って来た事は美徳である。

 

本当の意味での英雄はロドリゴ神父の方だったのだろう。

 

しかし、もしドス二等兵ロドリゴ神父の立場にあれば、自死も辞さなかったのでは無いのかと思わないでも無い。

 

ジョルジュバタイユによるとキリスト教は侵犯を禁止している宗教であるらしい。

 

聖職者にとって自死とは侵犯に他ならず、それを選択しなかったのは聖職者としては当然の事なのだろう。

 

ここまで書いて来て気がついた事がある。

生きて行く事こそが反抗であったという事だ。

 

ロドリゴ神父は日本式に火葬されるが、映画ではその時、モチキから貰った木彫りの小さな十字架を手に持っている。

 

転びのロドリゴと呼ばれながらも密かに信仰を持ち続ける事が。

モチキ達と同じように死んだ時、火に焚べられるその時まで。

信仰を密かに持ち続ける事が殉教者に対するロドリゴ神父の慰めだった。

 

二人の違いは、目的に対する手段の違い、アプローチの違いなのかもしれない。

 

二人とも人に寄り添い、励ます事が出来た立派な人物であった。

 

英雄というのは、人に希望と勇気を奮い起こす事の出来る人間のことを指すのかもしれない。

 

 

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沈黙 silence

ハクソー・リッジと二本立てで

沈黙 silence も見てました。

遂に念願かなって観にいけた。

 

あらすじは、小説の1984の世界が実際に日本でキリシタンに対して行われていた。

程度で十分だと思う。

 

イエズス会としては

棄教するぐらいなら、死ね

というようなスタンスであったので、

棄教した上、死んでいない奴なんて記録に残せない存在だ。

原作、映画ともに、そうせざる得なかった人に焦点を当てている。

 

つまりは主人公ロドリゴ神父と日本人キリシタン、キチジローの物語だ。

 

キチジローは自分の事を弱いと言った。

事実、裏切りを重ねて自他共に認める卑怯者だ。

 

しかし、彼はキリシタンであろうとした。

裏切る数だけ告解し、都合が悪いと直ぐに逃げ出すような卑怯者だった。

けれども、その姿こそ本当に救いを求めてる教徒そのものであったと思う。

 

彼を慮り、同情するほど面の皮は厚くなかった。

想像を遥かに超えた苦しみが彼と共にあったことを推量出来るだけだ。

 

思考を弾圧により捻じ曲げる事が、ここまで人間を追い詰め、底辺へと追いやる事が出来る事に戦慄するばかりだった。

 

自分にとってこの映画は、 あまりに壮大であり見るたびに発見があると思う。

たぶんこれは他の人でも当てはまると思う。

 

悲しさだけに囚われることなく、多くをこの映画から気がつく事が出来る勇気が欲しいと思わせる映画だった。

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ハクソー・リッジhacksaw ridge

ハクソー・リッジ今更見てきた。

早稲田松竹様様です。

音が良いと思うんだよね。

前情報が殆ど無い中、見に行ったら、

沖縄戦の前田高地が舞台でなんとも言えない気持ちになりました。

 

戦争描写は、過激な物に慣れてしまっている現代の中で、

派手なので、エンタメ性が観られなくも無いけれども、

やはり戦争に対する嫌悪感は、しっかり植えつけられた。

 

戦争については快く思って居ないので、

その後の救助活動を英雄的に、最近のより身近な人間味溢れる英雄的に描写している所には違和感があった。

 

英雄とは事件が起きてしまった結果、生じるものであり

実際にはそんなものいらないのである。

戦争が無ければデズモンド ドスも居なかったろう。

しかし、あったからこそ、その経験を芸術に昇華させ後世に残していけるような傑作も多数生まれた。

 

 芸術は反体制なものだと思うので、

エンタメ的な戦争映画は正直好きじゃない。

でも、それをいつも求める事はワガママでしか無いのだろうか。

 

ただ主人公のドス二等兵は、正に見事な反体制派だと思う。

主義により銃を持たない。

統率の為に規律は必要であり、統率により組織が存在出来る。

その中で自分を貫いて行く。

まあ、お父さんが直訴してくれたお陰なんだけれども。

 

結局は人との繋がりなのだと思う。

孤独であれば、誰にも縛られないし、組織されない。誰にも理解されないし、応援もされない。

 

人と繋がる事が簡単な世の中。

人との繋がりを簡単に断ち切れる世の中。

 

戦争を知らない大人達と過激なものが簡単に手に入る子供達にとって、このような映画、このような主人公はどのように映るのだろうか。

 

何か引っかかるものが誰にでもあると思う。

映画館で見れて良かったです。

 

 

 

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