ムーンライト・マンチェスターバイザシーを見てきました。
この前早稲田松竹に映画見に行ってきた。
2016年アカデミー作品賞《ムーンライト》
両作品を立て続けて鑑賞して考えた点があった。
《受け入れる》ということ。
ざっくりあらすじを書くと
《マンチェスターバイザシー》
兄の死をきっかけに甥の相続人として自身の因縁が残る街に帰ってきた男性の話
《ムーンライト》
黒人の貧困層に生まれた男の子が様々な経験をして、青年になるまで。
受け入れられないながらも、前を向き始めた男と
人に受け入れられて少しだけでも自分を認められた青年。
この映画を見て自分の《受け入れる》とスクリーンの中の受け入れるが違っていることに気が付いた。
自分の《受け入れる》とは、雄々しく勇猛果敢に自分の因縁に立ち向かい、見事に乗り越えるという英雄的なイメージがあった。
スクリーンの中の《受け入れる》はもっと静的な静かなものだった。
自分にはどう仕様もない因縁。
一方は時間と自分よりもか弱い、庇護し愛すべき存在によって。
他方は変わってしまった自分を色眼鏡なしに愛してくれた恋人によって。
なんというか、忌野清志郎の「君が僕を知ってる」の様な嬉し恥ずかしな感じ。
柔和に浸食するような《受け入れる》。
立ち向かうことによって成長や名誉を勝ち得ることは出来るが、もっと大事なものが存在している、ということを教えられた。
自分には彼らのように立ち止ってしまうような、大事件は今のところ起きてはいない。
でも歩き続けているかといわれると、心配な面もある。
だから、縁起を担ぐわけではないけど、この映画についてのエントリーを一番最初に持ってきた。
立ち止りすぎないようにしたいと思ってはいる。