ムーンライト・マンチェスターバイザシーを見てきました。
この前早稲田松竹に映画見に行ってきた。
2016年アカデミー作品賞《ムーンライト》
両作品を立て続けて鑑賞して考えた点があった。
《受け入れる》ということ。
ざっくりあらすじを書くと
《マンチェスターバイザシー》
兄の死をきっかけに甥の相続人として自身の因縁が残る街に帰ってきた男性の話
《ムーンライト》
黒人の貧困層に生まれた男の子が様々な経験をして、青年になるまで。
受け入れられないながらも、前を向き始めた男と
人に受け入れられて少しだけでも自分を認められた青年。
この映画を見て自分の《受け入れる》とスクリーンの中の受け入れるが違っていることに気が付いた。
自分の《受け入れる》とは、雄々しく勇猛果敢に自分の因縁に立ち向かい、見事に乗り越えるという英雄的なイメージがあった。
スクリーンの中の《受け入れる》はもっと静的な静かなものだった。
自分にはどう仕様もない因縁。
一方は時間と自分よりもか弱い、庇護し愛すべき存在によって。
他方は変わってしまった自分を色眼鏡なしに愛してくれた恋人によって。
なんというか、忌野清志郎の「君が僕を知ってる」の様な嬉し恥ずかしな感じ。
柔和に浸食するような《受け入れる》。
立ち向かうことによって成長や名誉を勝ち得ることは出来るが、もっと大事なものが存在している、ということを教えられた。
自分には彼らのように立ち止ってしまうような、大事件は今のところ起きてはいない。
でも歩き続けているかといわれると、心配な面もある。
だから、縁起を担ぐわけではないけど、この映画についてのエントリーを一番最初に持ってきた。
立ち止りすぎないようにしたいと思ってはいる。
まさかの社会派 ソウルステーションパンデミック(あと新幹線)
韓国の最底辺の人々の生活なんて、想像した事もなかったけれども、酷いの一言に尽きる映画でした。
ゾンビはオマケでヨンサンホ監督が言いたかった韓国のリアルがひしひしと伝わって来る映画でした。
ゾンビ部分は普通なので最初と最後だけ見ておけば良かった感じです。
最序盤からホームレスへのパンピーの厳しい態度が包み隠さず出ていて、街頭で福祉問題について語っていた青年がホームレスと見るや、見事な手の平返しで馬鹿にし始めるやら、何処に行っても相手にされないやらで、まあ凄かった。
日本でもいる偶にいるような、頭の変なオバさんも出て来るけど(ゾンビと間違えてメッチャはらはらするシーン)、ああいう人は福祉の対象では無いのだろうか。
正直映画の内容よりも、何故あそこ迄蔑まれているのか、その認識の由縁を調べて見たいと思いました。
ホームレスのおっさんが言っていた
「この国は国民が嫌いだけれど、国民は身を粉にして国に尽くしている」
に言いたい事が詰まっていたと思います。
何処の国も一緒だね。
新幹線はまあ、お父さんがゾンビになっちゃって二人に襲いかかるエンドでも良かったんじゃないかな?
それなら、もう十分は尺減らせるし。
花筐。「奪われる物の違い」
有楽町のスバル座?で見てきました。
(名前合ってるかわからない)
見て来て思ったのだけれど、今迄の戦争映画とは違う事について描いていた。
視点がぐーっとミクロにクローズアップしたのを感じました。
今迄の戦争映画だと命や生活が奪われる事が多かった。何万人が死んだとか、空襲で焼け出されたとか。
けれどもこの映画では、自分らしく生きる事を奪われていました。
戦争の悲惨さよりも、個人が息を殺して過ごす悲惨さが描写されていて、現代社会の現状を描いていた。
つまり、戦争自体は単なるトドメに過ぎず問題はもっと前から始まっていたのだと思う。
劇中の主人公とその周辺の人々は今現在の若者とその周辺の人々とは全く同じ立場にある。
逆か。後者が前者と同じ立場にあると言うべきだった。
戦争が迫っているひりつく緊張感の外に若者がいて何も知らずに消費されていく目前に自分達が生きているのだと言いたかったのだと思う。
実際若い人達はもう消費されている。
日々の生活で大きな存在に消費されて消耗している出涸らしに成りかけている。
keep it realとか言うけれどrealの幅がとても狭まって来ていると感じる。
手の届く情報の範囲が広まっているからこそ、手が届く情報だけに囚われてしまって複合的に、メタ的に考える事が出来なくなっているのだと思う。
今胸焼けを起こしている人達はどれだけいるのかと。タイラーダーデンの様にはっきりと僕の目は開いていると言い切れる人がいるのかしらと。
思いました。
lala landララランド
ブルーレイで見ましたが、エライ面白かった。
特に冒頭のハイウェイでのダンスシーン感動し過ぎて思わず泣きました。
しかし、凄い話ですよね。
あのハイウェイで踊ってた人達その後一瞬も出てこないんですもの。
そういう事なんでしょうね。
二人の個人的な愛を犠牲にして成功を得てますもんね。
シンプルな映画では無かったです。
芸事に関する、二つの大事な事実が語られていました。
椅子は一つしかない事。しかも誰が座っても良い席な事。
大きな成功の為に取捨選択する必要がある事。
冒頭のシーンしかり、ゴズリングのバンドしかり、
別にあのバンドにゴズリングが特別必要だった訳じゃ無くて、只のコネだし。
でもあのバンドのキーボードは一人で充分なのだ。しかも誰が座ってもいい席だ。
エマストーンもね。
あの時関係者の目に留まらなかったらオーディションの話も無かった。
ゴズリングは自分の主義を曲げた為に
バンドでキャアキャア言われてちょっと嬉しいし、成功して自分の店を持てた。
エマストーンもパリに行ったから、成功した女優になれた。
ラストのifシーンとか切ないかったよ。
でもやっぱり座れる事が重要なんだよな。
ヨッピーさんも言ってたな。
これを書いていて思ったけど、センセーショナルな映画見て偉そうに講釈垂れる自分に酔っている事に気がついちゃったな。
薄々気がついてはいたけど。
回路(全然見れてません)
黒澤清監督の回路ね。
もう本当不条理。
そのタイミングで電気付けなくてもいいじゃん。
最初から全部電気点けてから探し物すれば良いじゃん。
もうなんなの本当。
何かしらの被害を被る人が不思議な力に引き寄せられて不可解な、脈絡の無い行動取るじゃん。
怖いんだよ。暗い所とか上手に使いすぎて本当もう!
友人が自殺した部屋の前に立つ→部屋真っ暗→電気つける→友人が首を吊っていた壁に人型の黒いシミがある→電気消す、部屋真っ暗→立ち去ろうと何歩か進んでまた戻ってきて電気つける
この部屋真っ暗の差たるや!!
ふざけんなよ!真っ暗の差!
気持ち悪過ぎるわ!
怖いよ!!
しかもなんで戻ってくんの!
帰れや!!
不条理過ぎるわ!
怖いわ!
好きや!!
正味30分も続けて見れた事がないけどやっぱり素晴らしいわ!
鑑賞に耐えない怖さってなんなん?
小さい頃にやってたcmもだいぶトラウマだったなあ
いつかちゃんと見るわ👁